■ 沿革

 資料館づくりの動機は、「鉄道の町」衰退の危機感にあった。それは、マイカー&ハイウェイ時代を迎えて、日常モビリティにおけるクルマ依存の進展と、高速移動サービスへのニーズ拡大=新幹線への需要集中が在来線ポテンシャルの低下をもたらし、総じて鉄道のシェア低下が進んだことが鉄道産業を直撃した、という構造問題である。
 しかし、この転換は同市だけに顕著だったというわけでない。例えば、石炭から石油へのエネルギー転換がもたらした産炭地コミュニティにみる輸送システムとしての鉄道の消失、北九州市や釜石市に見られるよう、重厚長大産業のグロバール化によってもたらされた企業城下町の停滞と、物流・生活動線としての鉄道の衰退・・・統計をとったわけではないが、北九州市の場合、工業中心都市から環境標榜都市のコンセプトを打ち出す今まで、かなりの路線と車両、ダイヤが消失している。
 その町で鉄道産業への就業機会を狭めたという意味で、新津市と同様の経済的課題を抱えていたといえよう。



チケット売り場には駅で見かける
「手荷物取扱所・案内所」の表示がある



ボードでブレーキの仕組みを解説  

 しかし、新津市の場合、冒頭にも紹介したように市民の就業者のほとんどが鉄道関係者で、その歴史も中途半端ではなかったとなると、国レベルの経済構造転換や、生活者としての利便性享受(鉄道で飯を食っていても、ボーナスはマイカー購入に使われる)ならば、不況やわが町の衰退も不承不承ながらも諦められたはずだ。
 ところが、その「鉄道の町」としてのプライドを強く傷つける事件が起きる。これほどの鉄道の町でありながら、そして各方面への乗り換え拠点でありながら、上越新幹線のルートから外されてしまったのである。これはかなりのショックであったろうし、怒りも噴出したであろう。その傷ついたプライドを癒すリハビリとして、「鉄道の町」としてのアイデンティティを持ち直すために、構想されたのがこの鉄道資料館の建設だったのである。

 その期待が大きかったことは、展示品の収集に関して、JRや鉄道関連事業者からの寄付のみならず、国鉄・JRのOBや、鉄道趣味のサークルや個人からも申し出が相次ぎ、結局、購入費をほとんどかけることなく完了させたという。なかでもOBは、展示コーナーごとに担当部署・担当者を決めて、現役の後輩を巻き込んで調達の段取りをするだけでなく、展示の更新やメンテナンスもボランティアの立場で自主的に(もちろん同館の了解を得て)取り組んでいるという、主体的な役割を果たしている。
 オープンは、1983年(昭和58年)の10月14日、鉄道記念日で、事業主体・管理は新津市である。

OBや愛好家などから提供された
写真、資料など


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